ユニークなタイトルと新海誠の映画に出てきそうなカバーに惹かれて、孫泰蔵さんの「冒険の書」を手に取りました。
どうして現代の勉強はこうもつまらないのか?という素朴な問いから始まる探求の旅。本書では孫さんが古今東西の様々な書物を紐解きながら、近代ヨーロッパは「教育の目的は、自由で平等な民主国家を作り上げること」という理想を掲げて「民主的な社会の担い手」を作るために子供を保護した結果、「人々は平等の名のもとに能力を絶対視し、自由の名のもとに人々に自己責任を強要するメリトクラシーの社会」が出来上がってしまったと説きます。
専門家と素人
専門家は、一般大衆の直感や感情に引きずられることなく、彼らならではの推論や結論を自信をもって出すことができます。なぜなら、彼らは歴代の専門家が積み重ねてきた知見をもとに自分の見解を述べ、もしそれがまちがっていたら、他の専門家から公式に批判されることが職業として保証されているからです。
その点、「素人は口を出すな」と批判する人は、「一般の人々とはちがったものの見方、ちがった意見を出す」という専門家の価値を否定しています。なぜなら、様々な意見を集めるからこそ「ちがったものの見方」が出るのであり、それを拒絶することは専門家の存在意義を失わせてしまうことになると気がついていないからです。(中略)
少なくとも、専門家だけが発言できるより、素人が本気でおもしろがって次々にいろんなアイデアを出せる世の中のほうが絶対に楽しいし、学術的にも社会的インパクトとしてもよい成果がでるんじゃないかと思います。(中略)
みんなが同じように考え、同じ行動をするから、世の中に多様性がなくなり、同調圧力が強まっていく。(中略)学校はもちろん、会社や役所なども、生徒や社員、公務員を同じ場所に集め、同じように考え、同じことをするように無意識のうちに強制しています。
それこそが同調圧力を強め、思考停止を「感染」させているということを私たちは自覚するべきだと思います。
p.260
このくだりを読んで、「土偶を読む」に寄せた養老孟司さんの言葉を思い出しました。
本書の面白さは二つある。一つは土偶がヒトではなく、植物や貝を象ったフィギュアだという発見、もう一つは素人がほとんどゼロから始めて、大きな結論にたどり着くという具体的な過程である。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思うのは、学問はかならずしも専門家のものではないということに気づいて欲しいからである。日本の現代社会がおかれている一種の閉塞状況を打ち破るような、こうした仕事がもっと様々な領域から出てきてほしいと願う。
養老孟司
親の言うことは聞くな
アンラーニングとは、自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びにとりくみ、すべてを組み替えるという「学びほぐし」の態度をいいます。(中略)
まずは、素朴な疑問に目を向ける。そこから新たな問いが生まれる。その問いを深く考えるために手を動かし、その過程で気づいた思い込みや常識を疑う。そして、新たに生まれた問いについて考える。
この一連の行為を繰り返し続けることが、自分の人生を自分で考えることにつながるのです。
p.277
僕らが常識と信じて疑わないもの、例えば自由や平等という概念ですら近代ヨーロッパのジョン・ロックやルソー、ホッブスといった政治思想家たちが唱えて革命を通じて一般化されたものです。こうした概念の「発明」により民主的な国家や資本主義が栄えたことは明白ですが、同時に国家という見えない仕組みにより失われた価値や感性があることも事実。
こうした従来の常識とされてきた概念についてその生い立ちから改めて検証することで現代社会の矛盾や弱点に気づき、より良い仕組みを考えるヒントが得られる。成田悠輔さんや斎藤幸平さんといった若手の研究者が様々なアプローチで提唱する新しい社会の仕組みは、こうしたアンラーニングの姿勢から初めて生み出されてくると思います。
本書では教育にスポットを当てて様々なアンラーニングのプロセスを示してくれますが、教育のみならず、より広い視点から「当たり前」を疑うスタンス、思考停止に陥らない心構えを大切にしたいという思いを強くしました。
ギブ・アンド・ギブン
サラリーマンは自分自身を「商品」として会社に売り、労働の見返りとして給料をもらいます。なんでも商品化された資本主義の社会では、生きていくのに必要なものはお金で買えるので、給料さえ得られればひとりで生きていけると思うように仕向けられているのです。(中略)
それに対して、脳性麻痺がありながら医師としても活躍する日本の研究者のシンイチロウクマガヤ(熊谷晋一郎)は、「自立するとは、頼れる人を増やすことである」と言います。(中略)
どんな人だって、誰にも頼らずに生きていくことなんかできない。親だけに頼っている状態から、徐々に社会の中に頼れる相手を増やしていくこと。それこそが自立だと彼は言うのです。
p.287
資本主義の社会ではお金で自由を買う社会。資本主義社会はその生い立ちからして成長することが善という仕組みのため、企業は際限なく成長を追い求め、サラリーマンは能力向上を強いられる構造です。
一方で、年収は一定レベルを超えると幸せの実感には寄与しないことが様々な研究から明らかになってきています。それでも能力を上げないと市場価値が下がってしまうという恐怖感にかられてスキル向上に邁進するほかない労働者。
しかし、経済的な自立だけが人間としての自立ではないという視点は忘れられがちです。お金では買えないもの、利害を超えて助け合える家族、仲間、友人がどれだけ自分の人生を豊かにしてくれているか。
テレワークの普及やSDGsのような考え方で少しずつ企業と個人の関係性は進化しているように思いますが、働くことと人生を豊かにすることのバランスというか相互関係性は、もっとより良いあり方があるはず、という問いは僕の中でずっと根底に流れています。
2014年に日経産業新聞に連載されたインタビューで語った「ワークライフ・シナジーの追求」は今でも変わらないテーマであり、それがもっと当たり前にできるような会社や社会の仕組みについて考え続けたいと思っています。
日本の教育者で研究者のユウタ・チカウチ(近内悠太)は『世界は贈与でできている』(2020)で「贈り手にとって、受け手は救いとなる存在だ」と言っています。
この世に生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。
近内悠太受け手の存在こそが、自分の人生の意味や生まれてきた意味を与えてくれる。つまり、私たちはただ存在するだけで他者に贈与をすることができると言えるでしょう。
与えることで与えられる。それなら「ギブ・アンド・テイク(give and take)」なんてさもしいことを言わず、ただ「ギブ・アンド・ギブン(give and given)」の関係があればいい。そうしても、いや、そうすることによってこそ、社会はきっとうまく回るはずだと僕は信じています。
豊かさを後の世代に贈り続けることを止めなければ、みんな豊かになれる。世界を贈与で埋め尽くすことこそが、世界をうまく回すための最良の方法であり、世界をなつかしくて新しいものに変えることになると僕は信じているのです。
p.291
これらかの時代に成功する可能性が高い人は、ギバー(Giver):人に惜しみなく与える人、という研究成果があります。
孫さんが語る「ギブ・アンド・ギブン」という信念はとても共感できます。2012年に書いたブログでもまさに同じ表現でその感覚を綴っていました。
世界を変える魔法
では、「世界は自ら変えられる」とはどういうことでしょうか。それは「自分自身が変わること」だと僕は考えています。対話の相手の知性を心から信じ、自らの大事にするコードを破り、相手の息づかいや体温を感じられるところまで思い切って飛び込む時、私たちはすでに以前の自分とは変わっています。そして相手も変わります。つまり、自分が変わることによってまわりの人たちが変わるのです。
対話に努めることによって、こうした変化が絶え間なく続いた時、水面に波紋が広がるように、私たちは大きな変化を目にすることができるようになるでしょう。そして、それが誰の目にも明らかになった時、人は「世界が変わった」と評価します。
p.307
短期的に見ると時には恩を仇で返されるようなこともありますが、今までを振り返ると、まずは自分をオープンにさらしたうえで相手の懐にふっと入り込んでみること、ちょっとした親切を先に差し出すことで得られるものの方がトータルでは十分に上回っている実感があるので僕はこのスタンスを信じています。
クレアモント大学院大学経済学・心理学・経営学教授でクレアモント神経経済学研究センター所長、ロマリンダ(Loma Linda)大学医療センター臨床神経経済学教授を務めるポール・J・ザック (Paul J. Zak)の『経済は「競争」では繁栄しない』”The Moral Molecule – The Source of Love and Prosperity”によると、利他的な行動は生物学的なレベルで人間の本能に根差しており、人間社会では利他的な行動をとる人は利己的な行動をとる人よりも生き残る確率が高いように設計されている、と言われています。
世界にあるすべての傾向は自分自身の中にある。自分を変えることができれば世界も変わる。自分の性根を変えた人間には世界も態度を改める。これこそが教えの極意だよ。こんな素晴らしいことはない。幸せはここからはじまる。
p.308 マハトマ・ガンジー
世界と対峙することを恐れないこと、世界で起こっていることに耳を澄ますことを恐れないこと、世界で表面的に生起していることのばけの皮を剥ぐことを恐れないこと。人々と出会うことを恐れないこと。対話することを恐れないこと。自分が歴史を動かしていると考えたり、人間を支配できると考えたり、あるいは逆の意味で自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、と考えたりしないこと。歴史のうちにあることを感じ、コミットメントを持ち、人々とともに闘う。そういうことだけだと思う。
p.309 パウロ・フレイレ
知らずのうちに学習し補強されて信じ込んでいる「常識」を疑い、1つずつアンラーニングしていくことで自分自身をよりフラットにニュートラルに寄せていくことの大切さについて改めて考え直す契機となった本です。