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日経産業新聞にインタビュー連載

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日経電子版に掲載されたインタビュー記事が2014/8/29(金)から9/8(月)まで平日の7日間に亘って日経産業新聞に連載されることになりました。初日は、MBAを志したきっかけについて。

また、8/27のブログアクセス数がこの日だけ通常の7,8倍ほどありました。何があったのだろうと思っていたら、友人が転送してくれた日経のメールマガジンでその理由がわかりました。記事の最後に当ブログのURLが記載されていたので、恐らくその結果だと思います。

それにしても、あの長いインタビューを限られた文字数で要約すると、こうなったというのが面白いです。僕がお伝えしたかった内容とは違いますが、ついクリックしたくなるキャッチーな見出しを考えるとこんな感じなのでしょうか。

タイトル:4回の社内応募で勝ち取ったMBA留学、数字への強さで同級生の信頼【日経Bizアカ 社会人大学院サーチ】

■□■ 日経からのお知らせ 2014.8.27 ■□■
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NTTデータ第二金融事業本部グローバルビジネス企画担当部長 竹倉憲也氏
~MBAはこう使う!
▼TOEIC満点近いのに英語聞き取れず、でも成績上位でMBA卒業できた理由とは!?
▼子は泣き続け、妻孤立~苦労を越え「居心地の良い場所から一歩踏み出せ」を知る

日経新聞メールマガジン
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理系の壁厚く

■慶応義塾大学法学部を卒業し、 NTTデータにシステムエンジニア(SE)として就職した。
 就職活動ではさまざまな業種を受けましたが、 「コンピューターで世の中を変える仕事がしたい」 という夢があり、最終的にNTTデータを選びました。 IBM でSEだった父の影響が大きかったと思います。 父はよくコンピューターの話をしてくれ、 私も小学生のころから、 家の中にころがっていパソコンをいじって遊んでいました。
 入社後の仕事は、顧客である銀行のデータセンターに常駐しながらのコンピューターシステムの保守運用です。将来就きたいと考えていた営業や企画の仕事の前に、まずはSEになってコンピューターの基礎をしっかり学んだほうがいいと考え、顧客に厳しく育ててもらえるような職場を自分から希望しました。
 自ら望んだ職場ということもあり、深夜勤務のシフトや長時間の残業もいとわず、仕事に打ち込みました。でも何年かたつうち、徐々にキャリアの壁も感じ始めていました。
 というのも、同じ職場の2、3年上には、理系出身のとてつもなく優秀なエンジニアがひしめいていました。私もがむしゃらに働きましたが、どんなに頑張っても、技術では勝てる気がしませんでした。閉塞感というか、キャリアの先が読めなくなっていました。
 そうした折、入社5年目くらいのころにたまたまMBA (経営学修士) 留学から帰国したばかりの、同じ大学出身の先輩と飲む機会がありました。といっても、そのときの私は、 MBAって何?というレベルでした。 言葉だけは聞いたことがあったかもしれませんが、自分とは関係ない世界だと思っていたので、 全く関心がありませんでした。ところがそんな私に、先輩は、ビジネススクールがどんなにすごいところで、どんなに素晴らしい経験をしたかということを熱く語ったのです。

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先輩の話に感化

 ビジネススクールがどんなにすごいところで、 どんなに素晴らしい経験をしたかということを先輩が熱く語ったことで、すっかり感化された私は、 さっそく自分でもMBAについて調べてみました。
 もともと私はシステムエンジニア(SE) として顧客と接するなかで、顧客のニーズに応えるためにはその会社の経営課題への理解が不可欠だと感じていました。
 また、自社もいずれはグローバル市場に打って出る時期が来るはずだとも思っていました。MBAについて調べていたら、この「経営」 と 「海外」 という私の中でのキーワードが、 頭の中で見事に合体したんです。 その瞬間、自分の探していたものはこれだとピンときました。 すぐ留学の準備にとりかかりました。

■しかし、会社派遣でMBA留学するには、まず社内選考を通らなければならなかった。
 現実は甘くありませんでした。 普通は、選ばれる人は、1回目か2回目で選ばれるのですが、 私の場合は4回目でやっと選ばれました。 4回も受けて留学した人は、後にも先にもたぶんいないと思います。
 私が何度も落ちた原因は、 1次試験の英語でした。最初の2回はこの段階で、ふるい落とされました。英語が弱点であることは最初からわかっていたので、予備校に通うなどして、勉強しました。
 会話力もつけたかったので、 個人教授してくれる外国人を探し、 毎週、 会話の練習をしました。 徐々に英語力がついて、3回目で初めて1次試験を通りました。
 1次を通ると、次は直属の上司が日ごろの勤務態度や業務成績なども考慮し、推薦をします。 私は3回目のときに推薦され、最後の役員面接に挑みました。
 しかし、結果は不合格でした。 それでも諦めきれず、4回目に挑戦し、やっと選ばれました。 しかし本当に大変なのはここからでした。
 留学については、 「国際ランキングトップ20のビジネススクールに合格すること」という社内基準がありました。しかも、出願の締め切りまで、たった半年。 ものすごいプレッシャーでした。

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学生の英語に苦労

 当時は抱えていた仕事もピークだった上に、 育児が加わりました。 長男が生まれ、 1歳になったときに保育園に預けることにしたのですが、 近所の保育園に空きがなく、 やむを得ず隣駅の保育園に預けました。
 共働きなので育児も分担です。 私は毎朝、 抱っこひもをつけて子供を抱っこし、 満員電車に乗り込みました。 イクメンなんて言葉もない10年以上前の話です。
 保育園に預けると再び電車に乗って、そこからは会社に着くまでの1時間、テープを聞いて英語の勉強です。昼休みも勉強にあてて、深夜に帰宅した後も睡眠時間を削って毎日1、2時間は勉強しました。 予備校にも通いました。 もちろん、週末なんてありませんでした。

■第1志望のカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA)のビジネススクールに合格した。
 UCLA を選んだのは、アントレプレナーシップ(起業)の勉強をしたかったからです。 といっても自分で会社をおこすわけではなく、社内で新しいビジネスを立ち上げたいと考えていました。
 授業が始まってまず苦労したのは英語です。
 TOEICは満点近い点数を取れるようになっていましたが、授業で米国人の英語があまりにもわからなくてがくぜんとしました。 教授はわかりやすく話してくれるのでまだいいのですが、学生の英語は非常に早口で、半分ぐらいしか聞き取れない。話が理解できないと発言もできないので、 大きな問題でした。
 読まなくてはならない課題の量も半端でありません。米国人なら、ハンバーガーをかじりながらでも読み飛ばせるのでしょうが、こちらは読むスピードが遅いので、 毎日、夜中の2時、3時までかけて読み、論点整理をし、何を発言するかまで考えて授業に臨みました。
 最初の3カ月間はまさに泣きながらでした。

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UCLAでの言葉

 授業で大変だったのが、 グループスタディーです。 UCLAでは、学生同士が少人数のグループを作り、グループでプレゼンしたりリポートを書いたりする授業がたくさんあります。 グループとしての成績も個人の成績に反映されるので、みんな、できるだけ優秀なクラスメートとグループを組もうと考えます。 そのためにはまず、 自分が他人の役に立つことを周りにアピールしなければなりません。
 私はITのバックグラウンドと数字に強いところをアピールしました。 具体的には、ケーススタディーの授業でとりあげるケースについている財務諸表などのデータを前もって読み、 仮説を立て、データを組み合わせて新しいデータを作るなどし、それを最初のグループミーティングのときにプレゼンするんです。
 数学の苦手な米国人は驚きます。「ケンヤはすごいやつだ」という評判も口コミで広がります。そうなると、次に別の授業でスタディーグループを作るときに「一緒にやらないか」と声を掛けられるようになります。終わってみれば上位の成績で卒業することができました。

■帰国後は、金融事業本部に戻り営業の仕事に就いた。
 MBAを取って大きく変わったのは、世界中から集まってきた優秀な学生たちと切磋琢磨(せっさたくま)したり、マッキンゼーでサマーインターンシップを経験したりするなかで自信がつき、 新しいことに挑戦する一歩を踏み出す勇気と面白さを実感できたことでした。UCLA で Putting yourself out of comfort zone (居心地の良い場所から一歩踏み出せ)という言葉に何度か触れて以来、今でも思い出して自分を奮い立たせています。
 例えば、NTTデータは今でこそM&A(合併・買収) に積極的ですが、当時はそれほどでもありませんでした。私は課長代理として、 営業の仕事をこなしつつ、 これからは成長戦略の一つとしてM&Aが必要だと考え、上司に説いて回りました。 初めは相手にされませんでしたが、 そのうち当時の副社長から、「そこまで言うならお前が中心になってやってみろ」と言われ、金融分野のM&Aのチームを立ち上げることになりました。

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社内SNSを提案

 具体的には役員に順番にアポを取り、 事業を拡大するために獲得したい製品や人材、 顧客基盤などについて話を聞いて回りました。
 一方、投資銀行にこちらの意向を伝えて買収候補となる会社のリストを出してもらい、それを分析し、実際に自社の弱点を補うことができる会社の買収までこぎつけました。
 こうした本業のかたわら、社内の部署の壁を越えて社員同士が助け合う企業風土を作る手段としてソーシャルメディアに着目し、有志を募って社長を含めた経営陣に社内交流サイト(SNS) を提案しました。 まだフェイスブックが一部の学生の間だけで使われていた2005年の話です。 社長の了解をとりつけ、 社内SNSを立ち上げることに成功しました。
 この取り組みは2009年、 企業情報化協会から第26回ITマネジメント革新賞を受賞しました。
 副社長に直談判してM&Aのチームを立ち上げたり、社内ボランティアチームを結成して経営会議で社内SNSの構築を提案したりといったことは、システムエンジニア(SE)だった昔の私には思いもつかなかったと思います。これも、ビジネススクールの2年間で培った自信、その気になれば何でもできるというチャレンジ精神のたまものだと思っています。

■3年前から現職。 世界中に散らばるグループ会社間の意思疎通を促進し、新事業を生み出すことで買収のシナジー効果を高める任務を担う。
 NTTデータには現在、グループ全体で7万5000人の社員がいますが、 そのうち半分以上の4万2000人は、買収した海外のグループ会社で働く外国人です。 それほど海外のグループ会社が急速に増えているわけです。
 ところが、それぞれの会社がどんな強みを持ち、それをグループ全体でどう生かせるかといった情報がまだ十分に共有されていません。そこで、グループ会社間のコミュニケーションを強化し、金融事業分野で新事業を生み出すことで、買収のシナジー効果を発揮させるのが私の仕事です。

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ダイバーシティを重視

 グループ会社間のコミュニケーションを強化し、 金融事業分野で新事業を生み出すことで、 買収のシナジー効果を発揮させるのが私の仕事です。
 この一環として、今秋、海外の主要なグループ会社の金融事業部門責任者を米国に集め、 会議を開く予定です。まずは自己紹介から始め、 それぞれの会社の顧客基盤や事業モデル、人材の強みなどを互いに理解した上でグローバル規模でどんなシナジーを実現していくかについて共通認識をつくることから着手します。
 こうした、さまざまなバックグラウンドや強みを持った人たちが集まり、英語という共通の言語を使って議論し、一つのものを作り上げていく過程は、ビジネススクールでのグループスタディーと似ています。
 グループスタディーの経験や考え方は、日々の仕事にも応用しています。スタディーグループというのはダイバーシティーに富み、ヒエラルキーのないフラットな組織です。
 そうしたフラットでオープンな雰囲気の中で各自の個性を生かして議論するからこそ、新しいアイデアも生まれます。 それを応用したのが、現在の私のチームです。
 チーム内では、みんな互いにファーストネームで呼び合います。 20代の社員も私のことを「ケンヤ」 と呼びます。最初は半ば冗談から始まったささいなことですが、 若手社員が自由に意見を述べる雰囲気作りに役立っているのではないかと思います。

■MBA留学は、 人生観も大きく変えた。
 留学する際は、金融機関の総合職だった妻もキャリアを中断する決断をしてくれ、家族3人で米国に渡りました。ところが、予想外の事態になりました。

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仕事と家庭 互いに刺激

 まず、 2歳の長男を現地の幼稚園に入れたのですが、 1週間泣きやまず、受け入れを拒否されました。 妻は妻で、友達もいない、子供は現地になじめないということで心身ともに参っていました。でも私も自分のことで精いっぱいで、そんな妻のケアも十分にできない。 そのうち妻が 「日本に帰りたい」とか言い出す始末でした。
 妻は結局、 帰国するころには、「転職しても構わないから、このままロサンゼルスに住みたい」 と言うほど米国の生活を満喫することになったのですが、最初の数カ月間はまさに修羅場でした。
 そんな経験をするうちに、 やはり家庭生活が充実しなければ仕事がうまくいくはずがないと思うようになりました。 以前から頭ではわかっていたことですが、 2年間の留学生活で腹落ちしました。実際、留学中はどんなに忙しくても夕方6時には家に帰り、家族で夕食をとり、息子を風呂に入れて、 その後に勉強という生活を続けました。
 今も、率先して計画的に休暇を取得したり、無駄な残業を極力しないように心がけたりしています。 帰国後に長女が生まれた時は2週間だけですが、育児休暇を取りました。 こんなチャンスは二度とないと思い、 妻の代わりに長男の弁当を作り、保育園まで送り迎えしました。 昔の猛烈サラリーマンの自分には考えられなかったことです。
 ワークライフバランスという言葉を最近よく聞きますが、私の場合はバランスをとるというよりも仕事とプライベートを行き来しながら互いに前向きな刺激を与えることで1+1を2以上にする、いわばワークライフ・シナジーを追求しています。

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