読書メモ

それでも人生にイエスと言う

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ナチスによる強制収容所の体験として世界に衝撃を与えた「夜と霧」の著者、V・E・フランクルが、戦後間もない1946年、彼が強制収容所から開放された翌年にウィーンの市民大学で行った講演集「それでも人生にイエスと言う」を読みました。

ナチスの強制収容所という「もはや何ものも世界から期待できない」究極的に絶望的な状況下に置かれたとき、人は何を希望にして生きていけばよいのか。人生の意味とは。

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責任のよろこび

何となく過ぎていく、ありふれた日常の時間。どう過ごすかは自分の意志次第です。

p.160 人間の責任とは、おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものでもあります。

 おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の可能性を実現するか失うかするのです。さて、その瞬間その瞬間には、何千もの可能性があるのに、そのうちのたった一つの可能性を選んで実現するしかありません。しかし、一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性に対して、存在しないという宣告を下すことになるのです。しかもそれらの可能性は「永遠に」存在しないことになるのです。

 それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。

今の自分の周りを見渡したとき、自分自身を見つめたとき、その状況はすべて自分が今まで積み重ねてきた時間の過ごし方、瞬間瞬間の決断の結果だという厳然たる事実の重みを感じます。

そして、その行動は自分の心の中にあるものから自然と湧き出てくるもの。読んでいて、ふと中村天風さんの一節を思い出しました。

p.375 目に触れるすべての物は一切合財、宇宙の自然創造物以外はみんな、もうどんなものでも、ちりっぱ一枚でも人間の心の中の思い方、考え方から生み出されたものじゃないかい。それ以外の物があるはずないもの。
 それがそうだとわかったら、あなた方の一生も、またあなた方の心の中の考え方、思い方で良くも悪しくもつくりあげられるもんだということがすぐわかってくるはずなんだ。(中略)

 自分の念願や宿願、つまり現在自分がああなりたい、こうなりたいと思っていることが、叶う叶わないということは、それが外にあるのでなくして、みんなあなたたちの命のなかに与えられた心の思う力、考える力のなかにあるんだ。

成功の実現(中村天風)
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生きる意味と価値

生きる意味について考えるとき、僕らは無意識のうちに「人生から何を得られるか?」という発想で考えがちです。でも、この考え方をしている限りは、飽くなき欲求のサイクルから抜けきれません。

何かを手にすると、人はまたもっと良いものが欲しくなるもの。決していつまでも満たされないまま何かを追い求める人生にどんな意味があるのでしょうか。

p.184 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点の変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。……哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先だけではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

「夜と霧」p.184

p.184 生命とか人生の意味とは何かということを問題にする場合、われわれは通常、それを自己の方から、つまり自己を中心にして、「われわれは人生から何を期待できるか」という観点から問う。この観点は、いわば自己を中心にすえて、自己から世界を見る見方、つまり自己の利益という視点から世界を見る見方である。このような見方はしかし、例えば強制収容所におけるような絶望的な状況では耐えることができない。なぜなら、そこではもはや何ものも世界から期待できないからである。(中略)

 この絶望的な状況はしかし強制収容所に限られない。われわれの存在はすべて「死への存在」(ハイデッガー)として、根本的に同じ限界状況に置かれているのである。このことは、収容所でたおれていった人々と同じように、「われわれは人生から何を期待できるか」という自己中心的な人生観ではこの限界状況に耐えることができないということを意味している。そして、この自己中心的な人生観とは、さきに述べた「快楽への意思」と「力への意思」の人生観に他ならない。それらは、自己の「快楽」、自己の「力」の追求として、自己のためであるが、その自己が結局何のためか、という問いに対する答えはそこからは出てこないのである。「われわれは人生から何を期待できるか」という自己中心的な人生観は、自己存在そのものの意味にとって原理的な限界をもっているのである。

解説「フランクルの実存思想」(山田邦男)

人間、誰もがいつかは死ぬのが分かっている中で、一時の快楽や権力、お金といったものを追求しても、しょせんは束の間の自己満足であり、それを求める自分は何のために生きているのかは分からない。

でも、自分がどう生きるかは自分の決断に委ねられていて、他人はコントロールできない。自分で考えて、行動して、その結果としてこの世の中に何らかの良い影響が与えられるのなら、それが自分の生きる意味ではないか。

そして、いまこの瞬間を何をしてどう生きるかが常に問われていて、そうした決断を積み重ねた結果が今の自分である。さて、あなたはいま幸せですか?

ドキッとさせられる問いかけの連続です。折に触れて読み返したい一冊です。

追記:同じ1946年に米国で公開された映画「素晴らしき哉、人生!」では、絶望と生きる意味について全く違った描き方をしながらも同じメッセージを伝えています。こちらもぜひお勧めします。

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